どうも、グラントです。
今回は「優等生」について。
優等生とは何か
「優等生=優秀」ではない
学校や塾など、教育の場では優等生という言葉が使われます。
時にそれは褒め言葉として。
また時にそれは人を揶揄する言葉として。
優等生というワード自体に悪いイメージはありません。
言葉の通りに受け取るのであれば、等級が優れた者、となるのでしょうか。
学校では優等生であることが求められ、そういう生徒ほど誉められる存在になることが多い。
だから一度優等生と呼ばれた子は、そのままいわゆる「いい子」として育ちます。
そして社会的に「よくできる」大人として、社会に出て行く。
もちろん悪いことではありません。
ただ「優等生=優秀」ではないと、わたしは思うのです。
優等生であることが悪いことと言うつもりは全く持ってありません。
以下、個人的な解釈を含みますが、
優等生とは「社会的に良しとされる規範に則った行いをする者」に送られる称号です。
社会のルールをどれだけキレイに守れるか。
評価軸はここでしょう。
だから優等生であることが即ち、優秀であることの証明にはならないと思うのです。
自分が優等生に分類されると思う人にこそ、盲目的にそれを良しとしないで欲しい。
これは自分に言い聞かせている側面が強いので悪しからず。
「劣等生」などいない
優等生という言葉があるからには、劣等生という言葉も連想されてしまいます。
ある種の評価軸があり、それによく則る者が優等となるのであれば、劣等と呼ばれる者がいるのは仕方のないこと。
ただこれはその評価軸上だけのお話。
「優等生=優秀」ではないように、「劣等生=平凡」ではないのです。
そもそも優等生という言葉の裏には、そのものを評価する評価者の存在があります。
その評価者の”ものさし”上は好ましくないというだけで、その子の持つ能力や個性は人より何倍も秀でていて、珍しく、誇るべきものかもしれません。
“ものさし”が変われば評価も変わる。
学校で使われる”ものさし”が全てと思い生きていると、自分の隠れた能力や個性が少しずつ衰退していってしまいます。
人からの評価にこだわらず、自分の欲望に正直でありたいものです。
でもわたしのような臆病者にとって、自分に正直になるのは非常に勇気のいること。
優等生という性
優等生=臆病
「優等生=臆病」。
全ての優等生に当てはまるものではないかもしれません。
しかし「優等生=臆病」というのは、あながち間違いではないと思っています。
優等生をやめられない人。
その理由は何でしょうか。
優等生でいるのが楽だからではないですか?
自分に正直に、欲望の赴くままに行動すれば何物からか非難される危険性があります。
自分に正直に動けば、対人関係の暗黙のルールや、良しとされる価値観に背くことになるかもしれません。
そうなれば生活がしづらくなる。
だから今のまま、大した労力じゃないのなら、良しとされるものに従って動けばいい。
その方が楽だから。
たとえ優等生であることが非難されても、それは自分自身が貶されたわけではない。
自分を優等生と評する”ものさし”そのものが非難の対象と受け取れる。
優等生であるということは、自分のために逃げ場を与えてるということ。
自分の思い通りに動いて非難されれば、それは紛れもなく自分自身に向けられたものになります。
逃げ場はどこにもない。
そうなることに怯えているのではないですか?
自分という存在が否定されるのが怖いから、「優等生」という安息の地に逃げ込む。
「優等生」の殻を破れ
非難する側の心情を考えてみましょう。
人は自分と大きく違うものを恐れます。
その恐怖から逃れるため、似たもの同士で群れを作る。
群れからはぐれ孤立した者は危険に見舞われます。
だから自分も彼らと同じであるよう擬態して、その群れに溶け込もうとするのです。
そうすれば人と異なる存在にならず、危険にさらされる恐れもありません。
このようにして人の集団は形成される。
恐怖こそ動機。
非難する者も怖いのです。
自分と違う存在が優勢になれば、自分たちの居場所を奪われてしまう。
だからその前に危険の芽を摘んでおく。
そうすれば自分がいるこの場所は安全だから。
ここまでのことを全員が意識して行っているとも考えられません。
本能的なものでしょう。
自らの存在を抑制し、違う価値観を持つ集団に溶け込む。
それに秀でた者たちが、現代社会において優等生と呼ばれる。
真面目に授業を受け、テストではいい点を取る。
誰とでも仲良くなれる性格で友達も多く、社交的。
それは孤立するのが怖いから。
自分という存在を否定されるのが怖いから、優等生を演じている。
優等生は武器になる
非難を怖れ、優等生を演じる。
それは悪いことではありません。
ある種の社交術。
できる人とできない人がいます。
せっかく優等生というスキルを会得できたのなら、それを有効活用すべきです。
優等生に必要なのは二面性。
あらゆる価値観に溶け込めるという優等生スキルは大きな強みです。
どんな環境であれ、相手がどんな人物であれ、適度な距離感を保ちながら良好な関係が築けます。
そこから一歩進めるための肝が自分の本当の個性。
自分本来の個性や欲望も集団に溶け込ます、もしくは個性で集団を侵食していく。
それができれば集団から孤立することなく、自分自身を生かすことができます。
そして集団”内部”において、まわりと違った個性を発揮できる人物は貴重な存在として重宝されます。
人は自分と違う者を恐れながらも、多様性を求めるというジレンマを抱えています。
ただそれは価値観の根本の部分、土台の部分を共有できている場合に限られるのだと思います。
土台を共有できているからこそ、その上の異質性はむしろ多様性として歓迎されます。
「優等生」と「個性」。
この二面性をうまく使い分けることができれば、人としての幅がグッと広がるのではないでしょうか。
あとは「個性」を表現する力を育むのが課題です。
ここからはまたの機会に。
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